田中角栄は新潟県の寒村農家の家に生まれ育ち、学校は尋常小学校までです。
そんな人間が国会議員になり大臣を経験し、そして日本トップの政治家総理大臣まで上り詰めます。
当然、そんな人間には多くの成功ノウハウや苦労や、世渡り術が名言、名ゼリフになっています。
こちらではそんな田名角栄が残した多くの名言、名ゼリフ、語録から厳選して10個をご紹介します。
顔と名前は絶対覚ろ 味方が増える
役人の顔や人脈ぐらいは
よく覚えておけ。
5年、10年たって
いっぱしの大臣になったとき
「君、見たことないな」
では話にならない。
田中角栄は人の名前とプロフィールを覚えることに注力しました。一度会った人の名前も覚えていました。
そんな田中角栄にどうしても名前を思い出せなかったときのエピソードがあります。
「きみ、名前は何ていうんだったかな?」
そう言われた若い役人は、しょっちゅう会っているのに名前を覚えてもらえてないのか?と落胆しながら
「鈴木です」
「イヤイヤ、鈴木くんって、上の名前は知ってるよ。
聞きたいのは下の名前だよ」
相手は、自分の下の名前まで興味を持ってくれているんだ!とうれしくなります。
田中角栄は、こうして相手の自尊心を傷つけることなく上の名前どころかフルネームを知る術を身につけていました。
また、田中角栄は寝室の枕元に「政官要覧」と各 省庁の幹部名簿を置いていました。
その日会った官僚やその上下関係の役員の名前、出身校、同僚などの繋がりをいつも頭に入れるようにしていました。
そこまでの詳しい内容を知っていることで、「自分のことをそこまで知ってくれているんだ」と、相手は評価されたことに喜びますますやる気と尊敬の念を抱いて職務に励んだといいます。
美田は残さない
子孫に財産などを
残す必要はない。
子どもには教育、学問だけを ミッチリ仕込めばいい。
親が残した必要以上の財産は だいたい子どもをダメにする。
「それは、目白が黙ってないだろう」
「目白に伝えなきゃいかんな」
「目白」という隠語、永田町で「普通」にささやかれたといいます。
目白。それは田中角栄が住むの豪邸の場所です。
どれだけの豪邸かは定かではありませんが、その豪邸ぶりを想像させるのが池でした。その池には金額換算できないほどの多数の鯉が泳いでいました。
しかし、田中角栄が残した目白の広大な豪邸も、田中角栄死語の相続では、かなりの部分が物納され、娘の田中眞紀子夫妻の政治地盤を引きぐ後継者がいませんでした。
西郷隆盛の詩の中に『児孫のために美田を買わず』とあります。
田名角栄は生前、
「子供達が自分の力で手にする財はいいが、親が築いた財をそのまま相続するのはよくない。
額に汗してはたらき、努力して地力で作る財産にしなければならない」と口にしていました
田中角栄が残した「美田」の多くは税務署に渡りましたが、天国の田中角栄は残念には思っていないでしょう。
叱るときは相手を見る
手柄はすべて連中に
与えてやればいい。
ドロは当方がかぶる。
名指しで批判はするな。
叱るときはサシのときにしろ。
ほめるときは
大勢の前でほめてやれ。
長嶋茂雄さん、王貞治さんは、川上哲治監督時代の名選手でした。
川上監督が2人を指導、とくに注意説教する際の有名なエピソードがあります。
長嶋さんのときはみんなの前で長嶋さんをしかりましたが、王貞治さんには誰もいない二人きりの時に叱っていました。
王貞治さんはプライドが強く、みんなも前で恥をかかされるとやる気をなくすことが多かったようです。
一方、長嶋さんにはみんなも前で叱り、そして、なぜダメなのかをチーム全員にも知らしめる意図がありました。長嶋さんは恥ずかしがることもなく、素直に聞き入れるタイプだったから川上さんはこの方法を選んだのです。
田名角栄のこの名言、川上監督の王さん、長嶋さんに通じるところがあります。
田名角栄は、官僚や各省庁をうごかす術を心得ていました。
「公平」「指針」「信賞必罰」そして「配慮」がもっとも重要と考え、実際に行動していたからこそ官僚からの人気が高かったことが分かります。
返事は必ず出せ、それが人脈になる
必ず返事は出せ。
たとえ結果が相手の思い通り でなかったとしても
「聞いてくれたんだ」となる。
これは大切なことなんだ。
田中角栄の信条は、人間関係の絆でした。
頼まれたことはどんなに小さなことや、自分にとっては不都合なことでも必ず相手に返事をしていました。
とかく、相手にとってよくないことや不都合なこと、期待通りにできないことなどは返事しあくなかったり、ずるずると延ばしたしがちですが、田中角栄はそれは最低に対応だと自分のも戒めていました。
こうした小さなことの積み重ねが、目に見えなくても大きな絆となり、人脈になり、そして困ったときなどの助けの手を差し伸べてくれます。
女がいる候補者は選挙に勝つ
男は飲ませて
カネを握らせればすぐ転ぶ。
女は一度これと決めれば動かない。
候補者の周りに
女が群がれば間違いなく勝つ。
秘書の早坂茂三さんに田中角栄が語った言葉です。
「東大卒も田舎の婆さんも同じ1票だ」
選挙とは、つまるところ、こういうことだと、選挙の本質を突いた田中角栄流の格言です。
こういう考えが身に染まっていたのか、夫人のはなさん、側近として生涯仕えた佐藤昭さんや花柳界に生きた辻和子さんなど、田中角栄ほど身近な女性達の忠誠心に囲まれていた政治家はいませんでした。
実際、どんな境遇に陥っても「人間を見ることに敏感」な女性からの支持は絶大でした。
嫌いな相手、敵にも思いやる
カメラの連中だって
好きこのんで来てるんじゃない。
オレの写真が撮れないのでは
連中も商売にならんだろう。
手を挙げてやっても
いいじゃないか。
田中角栄の写真や映像で必ず目にするのが、「イヨッ」と右手を90度に肘を曲げて手を上げるポーズ。政治的にも境遇的にもどんな状況でも、このポーズは変わりませんでした。
拘置所から出てきたときも、金権問題でマスコミから追いかけられているときも、です。
身の回りからは、悪い報道をするマスコミに手を上げて挨拶しなくてもいいでしょう」と諭されても田中角栄は変えませんでした。
どんな状況の時でも、相手の気持ちを理解してそれに応えるという田中角栄の相手を裏切らないという人心掌握術は素晴らしいです。
苦労は裏切らない
子どもの頃、オレはお袋の 寝顔を見たことがなかった。
夏は朝5時、冬は6時に
起きたけれども母親は
もう働いていた。
だからオレは
早寝早起きなのかもな。
江戸時代、百姓の家に生まれた二宮尊徳。彼のエピソードに、明け星から暮れ星まで働き詰めたとあります。
同じく農家だった田中家もこのように朝早くから夜遅くまで畑仕事に明け暮れていたことでしょう。田名角栄の生まれが新潟ですので、冬の作業は限られたことから、農作業ができる春から秋まで、ずっとはたらき続けたことと思います。
田中角栄もこのような家で育ったため、早起きが身についていました。
「早起きは三文の徳」といいます。田中角栄が貧困生活から一国の総理大臣まで上り詰めることに導いたのは、早起きの習慣も一助であったことも違いありません。
敵に塩を送る
あれのオヤジは
新潟の副知事だったが
息子は雪国の怖さを知らない
極楽トンボ。
風邪をひくから靴下、
長靴、手袋を差し入れてやれ。
田中角栄がいう「あれ」とは野坂昭如のことです。
野坂昭如は幼少期を東京で過ごし、以後、神戸など関西地区での生活が長い期間ありました。
彼の父が新潟県の副知事をしたこともあり、また、田中角栄がロッキード事件で有罪になったことあって、参院議員を辞職して、1983年12月新潟3区から衆院選に出馬します。
雪国を体験したことがない野坂昭如さんは雪深い新潟の選挙活動中、立ち往生するなど相当苦しめられました。このような野坂昭如陣営を見た田名角栄は、野坂昭如陣営に応援の手を差し伸べました。
結局、この選挙では田名角栄が圧勝し、野坂昭如は田中陣営にお礼の電話をしました。
「ありがとうございました。もう選挙は出ません」と
おそらく、雪国の大変さを思い知ったのと、有罪判決を受けても田中角栄に対する有権者の絆の強さに脱帽していたことと思います。
実はこの選挙運動中に、野坂昭如は暴漢に刃物で斬りつけられ、以後の選挙運動を見送らざるを得ない状態でもありました。
ちなみに、野坂昭如さんにこのようなエピソードがあります。
早稲田大学に入学した頃、キャンパスで大きな会議が開催されようとしていました。野坂昭如は興味本位にどんな会議かと見ていたところ、議長の選出方が決まらず、会議が進まなかったそうです。その状況に業を煮やした野坂昭如は、このようにして選出したらどうか、と提案するとそれが採用され、そしてそのやり方で野坂昭如が議長に選出されたのでした。
下駄の雪 人には馬鹿にされていろ
人は馬鹿にされていろ、だ。
踏まれても、踏まれても、 ついていきます下駄の雪。
「親父の小言」にも”人には馬鹿にされていろ“という言葉が出てきます。
そして”下駄の雪”は政界でもよく使われる言葉で、都々逸「踏まれても 踏まれても ついていきます下駄の雪」から来ています。
田名角栄は酒を飲むとよくこの都々逸を口にしたと言います。
生まれ育った新潟は雪が深く、下駄の2枚の歯の間に雪が挟まって取れず、次第に歩く脚が重くなる光景ですが、一方では、我慢の象徴でもあります。
馬鹿にされていようが、舐められたとしても、悪口を言われようが、人間生きていれば避けて通れません。いちいち怒りを表していても切りがありません。
田名角栄はそのようなとき、腹の中では煮えくり返っていても自分が権力闘争の先頭に立つわけにはいかんだろう。我慢することが大切なんだと割り切っていました。
酒を飲んで気持ちがすこし緩んだとき、この都々逸を口ずさむことで、ほんのちょっとだけ吐露しているのかもしれません。
何歳からでも学ぶことに遅くはない
必要なのは学歴ではなく学問だよ。
学歴は過去の栄光。
学問は現在に生きている。
田中角栄は新潟の尋常小学校しか出ていない。
本人はそのことに劣等感を持って過ごしたこともあったといいます。
しかし政治家、とくに大臣クラスになってから以降は自らの武器にしていたように感じます。
どんな小さなことも恥と思わずに相手に質問していく姿は田中角栄ならではかもしれません。
学歴はその人の学業の歴史で、それ以上に広がりません。しかし学問はいつからでもはじめることができるし、積み重ねることで人間の幅が広がります。
田中角栄が総理大臣になったことで、田中角栄は、必ずしも高学歴でなくても日本を動かすトップのイスに座ることができるんだということを示した最初の人でもあります。
尋常小学校までの学歴の人間が、日本最高の学歴である東大卒の官僚を呼び出して指示を与える、質問に対して答えを求めるのは、気持ちいいことですよね。
まとめ
寒村の貧困生活送った少年から総理大臣まで駆け上がってた田中角栄。刑務所に入ったこともあれば、総理大臣になり、政敵である野党にも「隠れ田中派」が多数いたという慕われた政治家も、人生後半はロッキード事件で有罪になるなど波瀾万丈な人生を送ってきました。
そんな彼の言葉には相手を蹴落として前に進むようなイメージを抱きがちですが、まったく逆で、相手のことを考え、相手を立て、心情に寄り添う言葉多いことに驚かされました。
相手が立てなくなるまで
やっつければ、
敵方の遺恨は去らない。
徹底的に論破してしまっては
相手が救われない。
土俵際には追い詰めるが、
土俵の外に押し出す必要はない。
この言葉も、戦国時代の武将の戦術としても通用する言葉ですが、田中角栄は逃げ道を作って逃げ道を与えています。相手を必要以上に苦しめまいとしています。
田中角栄も相手に同じようなケースで相手にとことんまで苦しめられたことから生まれた言葉なのでしょう。
没後30年になろうとしている現在も、田中角栄関係の書物が出版されているのはそのような人間性が慕われている証左なんだと思います。